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「スペシャリストを目指した経験がないとゼネラリストになんてなれないよ」って話

この記事はKosen Advent Calendar 2012の18日目の記事です。 前日はむにょさんの高専生活+αでした。

僕は高専という教育システムについて論じたいと思います。 わりと真面目にいきます。いえ、超真面目にいきます。ガチです。

高校や大学でなく、「高専」を選ぶということ

高校とも大学とも違う高専で青春真っ盛りの5年間を過ごすというのはどんな人にとっても重要な問題です。そして、その決断をするのがたかだが15歳の子どもだというのは本当に本当に人生を左右するくらい大きな決断だと思います。*1 学問的な意味にとどまらず人間としても成長できるであろうこの重要な5年間を過ごす場所として高校や大学ではなく高専を選択するということがどういう意味を持つか、もっと多くの人に知って欲しいし、考えて欲しいし、その上で高専を認めてくれる人には実際にそこで学んで欲しい、そう常々思っています。

高校と高専 - 一人の人間として扱われるということ

まずは高専と高校の違いについて論じてみます。おそらくほとんど高専で共通だと思いますが、高専の1〜3年生までは制服を着用して登校し、専門以外の基礎教養科目の授業を受け、部活動にも励み、バイトしたり友達と遊んだり、普通の高校生と同じような時間を過ごします。もちろん、専門科目もありますので、まったく高校と同じかというとそうではありませんが、そういう意味では工業高校や商業高校なども同じことが言えるでしょう。僕はその程度のことはたいした違いではないと思っています。 高校と高専の一番大きな違いは周囲は、背負う責任の大きさだと思っています。僕らは入学した瞬間に先生からこう言われました。 「小学生は"児童"、中学生・高校生は"生徒"です。しかし、高専生は"学生"です。大学生と同じです。」 単なる呼び方の違いだと思ったこともありましたが、実際に高専での5年間を終えた今となってはこの言葉の意味を強く感じます。先生方は中学を卒業したばかりの15歳の僕たちに一人の人間として接してくれました。もちろん、指導する側と教わる側ですので最低限の礼儀・作法はありましたが、学生だからといって上から見られるようなことはなかった気がします。

厳しいことを言われたこともたくさんありました。 僕たちの自主性を信じて何も言わず見守っていただいたこともありました。 単位をいただけなかったこともありました。 留年してしまった仲間もいました。

これが高専です。

大学と高専 - 好きなことに集中できるということ

さて、では大学と高専はどう違うのでしょうか? 高専を経て大学に編入学した僕が感じていることは何かに打ち込む環境とそれに費やせる時間だと思っています。 大学の4年間は意外に短いです。入学してから半年か1年は学校生活に慣れるために必死になりますし、単位もたくさん取得したいでしょう。地元と違う地の大学に進学した場合は、学校以外の生活に慣れるのにも時間がかかります。また、大学院に進学しない人にとっては大学3年生になったらすぐに就職活動の準備をはじめる必要があります。高校を卒業してわずか2年強しか経たないうちに実際に働く自分の姿を想像し始めないといけないのです。 このような環境で本当の自分のやりがいを見つける時間はあるでしょうか?単位はちゃんと取得する必要があります。せっかくの大学生活、サークルにも入りたいでしょう。恋愛だってしたいと思います。一人暮らしの人はバイトだってしないと生活できません。もちろんこれらすべてが一概に悪いことだとは思いませんが、選べる生活スタイルの自由度が高いため、迷ってしまう学生も少なからずいるのではないかと思っています。

大学は自由です。それ自体はいいことだと思います。 しかし、あなたは与えられた自由を使いこなせますか?

高専だって自由です。 その上で、僕たちを導いてくれる先生がいます。 自分と向き合うための環境があります。 好きなことを見つけたときにそれを伸ばすためのカリキュラムがあります。

それが高専です。

総合百貨店とブランド直営店

もうずっと前に話になりますが、僕はこんなことをつぶやきました。 「大学は総合百貨店で、高専はブランド直営店」

高校を経て大学を卒業した人は非常にバランス感覚がよいです。たくさんのことを学び、たくさんの経験をし、危なげなく教養を深めてきた、そういった人たちだと思います。僕はこれを「総合百貨店的」と表現しています。揃っていないものはない、大抵のものを持っている。そういった意味合いです。

それに対して高専を卒業した人は非常に個性的です。自分の興味領域にどん欲で、妥協を知らず、周囲の意見に(いい意味で)耳を貸さない強さを持っている人たちが多いように思っています。これを「総合百貨店的」に対して「ブランド直営店的」と表現しています。持ってないものはたくさんある、それが必要だとも思っていない、ただ自分の軸だけはブラさない。そういう意味です。

この表現をしたときに高専時代の友人に大変いいメタファーだとお褒めの言葉をいただいたので、今回紹介してみました。 自由な環境*2で、たくさんの優秀な先生方と考えられたカリキュラムの中、自分と向き合い、好きなことを見つけ、それに打ち込んできた高専生。そんな高専生は多くの場合とても特徴的です。

高専生はスペシャリストか?という問い

さて、こういう話をするとこんなことを言われることがあります。 「つまり高専の人は専門以外は何も知らない専門バカってこと?」

僕はこれには明確にNOと答えます。 確かに高専のカリキュラムでは、非高専生が高校や大学で学ぶような基礎教養科目が少ないことは事実で、そういった知識が少ないことはあるかもしれません。しかし、それは高専を卒業してから身につけることもできますし、実際に「自分の技術をどうやって活かしていけばいいか?」という問いの答えを探すために学習領域を広げる高専卒業生を僕は数多く見てきました。したがって、高専生が大学生に劣っていると思ったことなど今の今まで一度たりともありません。

スペシャリストとゼネラリストみたいな二元論がたまにありますが、そういう対立構造にもまったく興味がありません。

僕はすべての人はスペシャリストを目指していると思っています。何かを知りたい・学びたいというのは人類の本源的な欲求だと思いますし、そういった知的欲求は無限に繰り返され、次々と新しい知識を求めていくからです。ゼネラリストとはその知的欲求の連鎖が深堀りする方向ではなく、周辺分野に広がった場合の結果に過ぎません。つまり、ゼネラリストとはスペシャリストの一つの形態に過ぎないのです。

それにも関わらず、多くの場所においてゼネラリスト信仰のようなものがあるのも事実だと思います。 何かを専門として深く知っているということと、浅く広くいろいろなこと知っていてそれを組み合わせることができるということ、この2つをまったく別の能力だと捉え、後者を必要以上に崇拝する風潮はわりと多くの人が感じているのではないでしょうか? そして、それがそのまま「高専よりも大学」になるのだとしたら、僕は非常に不本意に思います。

高専にせよ、大学にせよ、すべての人はスペシャリストを目指します。その経験をもってしてでしか、人はゼネラリストにはなれません。 自分が目指す「スペシャリスト」に自分がなるためには何が必要ですか? それは大学にありますか?ありませんか? 高専にならありますか?ありませんか?

結局はそういうシンプルな話なのです。

続いては、うなすけさんです。よろしくお願いします。

*1:実際、人生を左右します。

*2:ただし、大学ほど自由すぎない